情報社会の生き方

はじめに

僕は検察庁法改正法案について、一方的で表面的な一次情報しか仕入れないままに、批判的な発言をしてしまった。

僕はその失敗を糧にし、それ以降は様々な情報を仕入れるようになった。

 

でもその情報収集の過程で「そもそも情報ってなんだろう?」という疑問を持った。

 

ネットで調べてみると、

 

「情報とは国家、団体、または個人が、敵対する対立すつ競合関係にある国家、団体、個人についての状況を知るために獲得する知識をいう。」

 

「情報とは簡単に言えば伝えられる内容のことである。」

 

などと記載されていた。

ほんの一部の抜粋だが、情報という言葉には様々な定義が存在している事がわかった。

 

今回はそんな「情報」に溢れた現代社会の生き方について考えてみようと思う。

 

情報は必ずしも真実とは限らない。

僕は最近の検察庁法改正法案の一件や、コロナウイルスをめぐる日本政府の対応に関して、

後日Twitter・ネット・テレビなどで様々な情報を仕入れてみたが、真実がどれなのかは見分けがつかなかった。

 

安倍総理は非常によく頑張っている」という意見もあれば、

「日本政府の対応はクソだ」というような意見もある。(後者が圧倒的に多いが)

 

特に政治に関しての情報は、発信者側の「意見」が受け取る側にとっては「情報」

というものにすり替わってしまう。

 

 例えば、

「Aさんは怒っている」という言葉は真実だし、

「Aさんは怒っていそう」という言葉は意見にすぎない。

だけど受け取る側にとっては、どっちの言葉も情報として受け取る事ができる。

 

もし受け取る側の人間が「情報=真実」だと思っていたら、

「怒っていそう」が「怒っている」という真実にすり変わり、

それをまた他者に発信する事で「Aさんは怒っている人」という印象がつき、

本当は怒っていないにも関わらず、Aさんの周りには人が近づきにくくなるかもしれない。

 

このように「情報=真実」と思っている人が、発信者側の意見を情報として仕入れ、意見を真実だと思い込んでしまった時が一番危険だ。

 

ピンク色の相関図を見て、検察庁法改正法案を批判した数週間前の僕がまさにそうだ。

 

僕は図を見て、検察庁法改正法案は悪いものだという印象を持った。

というか「持たされた」って言い方が正しいのかもしれない。

 

世の中ではどんな善人でも、誰かの人生では悪役になってしまう。

 

人物でも意見でも法案でも、その影には必ず反対派が存在する。

反対派の中には意図的にこのような印象操作を行う人がいるかもしれない。

 

そうなった時に僕たちは、真実を見極める事ができるのか?

何が正しくて、何が間違っているのか?を正当な目で判断する事ができるのか?

真偽は問わずとも、公正な判断のもと、「私はこう思う!!」と言う事ができるのか?

 

正直僕にはその自信はない。

だけど、情報は必ずしも真実とは限らない。

この事を頭の片隅に置きながら、情報収集をしていく事が、

この情報に溢れた現代社会を生きていく上で大事な事なんじゃないでしょうか??

 

おわりに

幸いにも僕には「これは違う」と意見をしてくれる友達がいる。

僕は「人の話を聞くけど効かない。」と何度も言っているが、

否定された時に、どっちの言い分が正しいのかくらいは理解できる。

 

今回の検察庁法改正法案の一件では、僕の批判的な発言に関して、真っ向から批判してきた友達の意見が僕の発言よりも正しい事くらい、話を聞けば一発でわかった。

 

だから僕が口酸っぱく言っている、「人の話は聞いても効くな」という言葉は、

「人の話は聞いても効くな。ただし自分の非は素直に求めろ」という言葉に改善しようと思います(笑)

 

頑固でいながらも素直でいればいいし、

素直でいながらも頑固でいればいい。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!!