モチベーションの正体

モチベーションの正体

「このカフェで私の顧客を作るのが目標です!!」

モチベーション高く自己紹介していた彼女は、研修三日目を最後にその後研修に姿を現す事はなかった。

 

「高校教師になってサッカーの指導がしたい!!」

と意気込んで大学進学を決めた俺は高校教師になってはいない。

 

モチベーションの高い人間程、その道から逸れた末路を辿る。

これはどの組織でも顕著に見られる光景だ。

 

モチベーションの高い人間よりも、大したモチベーションの持ち合わせていない人間の方がその道で生き残ってる割合が高いのは何故だろうか?

 

ここ最近ずっと考えて、俺が導き出した1つの答えは

 

モチベーションってのは、

その道のキラキラとした部分だけを見て育まれた都合の良いやる気で、

キラキラとした部分に憧れを抱き、自分もそうなりたいと願う。

その浅はかで都合の良いやる気が、現実とのギャップをさらに大きく感じさせ、モチベーションの高い人間を途中下車へと導く。

 

モチベーションの低い人間ってのは、自分好みに歪んだ先入観を持ち合わせていないから、現実と理想のギャップにさほど苦しむ事なく、「まあこんなもんか」と現実を受ける事ができる。

 

↑これがモチベーションの低い人間ほど、その道で生き残っている理由の1つなのではないでしょうか?

 

では、憧れを抱き、夢を抱き、それを叶えたいとモチベーションを高く持った人間が、モチベーション以上に持ち合わせていないといけない物は何でしょうか?

 

それは「覚悟」だと私は思います。

理想と現実のギャップに心が折れてしまわない為には、キラキラとして部分だけではなく、泥臭く地道な積み重ねを受け入れる覚悟が必要だと思います。

 

俺はまだ人生の途中で、理想の自分にはまだ成れていないけど、覚悟を持ち合わせて、これからの人生を歩んでみようと思います。

 

2020.12/15(月)記録

 

 

 

 

 

 

 

プレーの錬金術

はじめに

「問題と解決の法則」という本を読みました。

名著「原因と結果の法則」でお馴染みの、ジェームズ・アレンの本です。

 

行動には失敗と成功という2つの結果があります。

結果に基づいて自分の行動を見直し、行動を改めていく事。

 

その過程をアレンは魂の錬金術と読んでいました。

 

自分の間違いを認識する事。

次に謙虚さと鋭い洞察力を持って自分の間違いと対峙していく事。

それによって、人間は自分を高める事できると。

 

これをサッカーに当て嵌めて考えてみるとどうだろうか?

 

プレーの錬金術

 

自分のミスを認識する事。

次に謙虚さと鋭い洞察力を持って自分のミスと対峙していく事。

それによって選手としての能力を高める事ができる。

 

ジェームズ・アレンの考えをサッカーに当てはめて考えてみるとこうなる。

 

実際にこんな考えの元、自分のプレーと向き合える選手がいたら、伸び代しかない。

 

選手にミスをどう捉えさせるのか?どう認識させるのか?っていのは、

指導者によって大きく異なるが、

ミスを「錬金術の必要要素」として捉えさせる事ができたら、

「ミス=成長に必要な事」って選手に認識させる事ができるから、

選手がミスを恐れて、チャレンジをしないという環境を回避する事ができる。

 

謙虚さの必要性を解く

 

またプレーの錬金術を行う過程で、

謙虚さの必要性を論理的に説明する事ができる。

 

謙虚が美徳とされている日本で、

ではなぜ?謙虚な心が必要なのか?ってところを言葉で表現できる人は少ない。

 

謙虚さがないと、プレーの改善に取り組む事ができない。

 

「あのプレーはあいつのミスだ」

「たまたまミスっただけだ」

 

謙虚さがないと、このような言葉でミスを片付けてしまうから、

プレーの錬金術が行えない。

それでは選手としての能力の向上に繋がらない。

 

サッカーはミスが付き物のスポーツなんだから、

謙虚さがないと選手として先が無い。

 

だから上手くなりたかったら、謙虚心を持て!!

 

俺はそう選手に伝えようと思う。

 

おわりに

指導者と選手。

年齢や立場というバックボーンを抜くと、結局は人と人なんだ。

言葉によるコミュニケーションは必須だ。

 

選手に自分の思いをきちんと伝えらる能力は、

様々な戦術を操れる事よりも、遥かに大事な能力だと思う。

自分が指導者になった時に、選手に自分の思いをちゃんと伝えらるように、

このブログを使って自分の思いを言語化し、保存しておこうと思う。

 

自己啓発の観点からサッカーを切ってみると、

意外と面白いかもしれない。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校サッカーの癌

過程に価値はない

 

情熱、熱量、それらは結果が伴わない限り、美化されるべきものではない。

 

試合までに1万本もシュート練習をしてきました。

でも試合ではシュートを外してしまい、チームは負けてしまいました。

 

その時に、「結果が伴わない過程なんて価値がない

そう選手に伝える事の出来る指導者は沖縄県内に何人いるでようか?

 

社会に出て自分のクオリティを示そうと思ったら、結果が全てだ。

どんなに情熱を持って取り組もうと、どんなに時間をかけようと、

それが必ずしも結果や価値に直結するとは限らない。

 

それなのに、結果よりも過程を大事にする価値観の植え付けには、

僕は断固として反対したい。

 

負けを前提とした指導方法

 

トーナメント方式が採用されている高校サッカーでは、

ほとんどのチームは敗退という結果を免れる事はできない。

 

負けを経験せずに引退できるチームは全国で僅かに1チームのみだ。

 

だからこそ、

負けを前提とした指導方法をとる事は当たり前とも言える。

 

現に僕が進学した那覇西高校サッカー部の指導法も、それに近いものがあった。

 

ループシュートの禁止

 

シュートはインステップでの、ど根性シュートが推奨されており、

ループシュート」は暗黙のルールで禁止されていた。

その理由を顧問に聞いた事がある。

 

「引退がかかっている試合で、そんなシュートを打たれたら、スタンドにいるメンバーに入れなかった選手はどんな気持ちになる?必死に応援している人の前でそんなプレーができるのか?」

 

顧問の答えはこんな感じだった。

 

言ってる事は十分に理解できる。

だけどそれは本質からは逸れている。

その発言こそが負けをベースとした指導方法だと僕は思った。

しかし、逆らえなかった。

「選手権への出場」を人質にとられているんだ。逆らえるわけがない。

 

大学での学び

高校での悔しい思いを胸に僕は大学でもサッカーを続けた。

 

進学先の大学の監督から、

シュートの三原則は「タイミング、強度、コース」だと教えてもらった。

「三原則の内の2つ以上を満たせば、ゴールの確率は高まる」とも教えてもらった。

 

その時に、ループシュートを禁止する指導者がいかに無能かがわかった。

 

ループシュートというのは、キーパーのタイミングを外すという意図を持ったシュートだ。

キーパーが飛び出してきた際には、コースをつくという意図を持ったシュートだ。

 

それを負けをベースとする指導法が悪手として、選手に認識させようとしていたのだ。

僕はこんなに恐ろしい事はないと思った。

 

要はループシュートもど根性シュートも、決まれば同じ一点だ。

 

それなのに、そこに指導者の指導法が介入する事で、選手の選択肢を奪ってしまっているという現状が、少なからずあるのだ。

 

結果よりも過程を美学とする価値観。

負けをベースとした指導方法。

こんな環境の元で育ったチームが全国の舞台で勝てるわけがない。

 

僕が指導者になったら、

「結果の伴わない過程なんてなんの価値もない。」

 

そう選手にはっきりと伝えた上で、

 

「でも、その結果に向かって、これだけの熱量を持って取り組めた君たち一人一人には、もたらした結果以上の価値がある」

 

そう伝えようと思う。

 

おわりに

いきなりサッカーの記事を書くからびっくりした人も多いと思う。

だけど、ファッションと同じくらいサッカーも大好きだ。

だからどっちも取りに行く事にした。

 

人生は後38年もある。

暇つぶしの手段はたくさんあったほうがいい。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「嫌い」も1つの自己表現

2020年5月24日(日)

「嫌い」

この言葉は悪い意味で使われる事が多い。

 

「俺はこれが好きだ!」という自己表現と比べると、

「俺はこれが嫌いだ!」という自己表現は、マイナス的なイメージを持たれやすい。

 

だけど、

「これが好きだ!」「俺はこう思う!」といのが自己表現ならば、

「これが嫌いだ!」「俺はそうは思わない!」というのも自己表現に当たるはずだ。

 

ではなぜ「否定」や「嫌い」は悪いイメージを持たれやすいのだろうか?

 

その理由は、

時として「嫌いだ!」「そうは思わない」という負の自己表現は、その域を超えて「他者を攻撃し傷付ける事」が目的になってしまうからだ。

 

テラスハウスメンバーの死去。

 

僕はその番組を視聴していないので、詳しい事はわからないが、

メンバーの言動に対して、視聴者ならば思う事はそれぞれあると思う。

それ自体は何も悪い事だとは思わない。

自分の意見としてSNSを使って発信してもいいと思う。

 

しかし、その自己表現が自分でも気づかぬ内に、

「他者への攻撃」へと目的がすり替わってはいないだろうか??

 

今振り返ると自分自身、自己表現のつもりが他者への攻撃を目的としている時が多々あった。

 

「自己表現」と「SNS」。

一般人であっても、個人として自分の言葉を世の中に発信できる時代になったからこそ、

自分の言葉には責任を持たなければならない。

 

俺も言葉による失敗は度々起こしている。

だけどその度に反省し、改善して、自分の言葉と自己表現を見つめ直している。

 

言葉というのは、一番伝わりやすい手段だからこそ、

一番気を遣う必要があると思った。

 

(おわり)

 

 

 

 

真実ってなんだろう?

はじめに

最近ネットで様々なニュースを見るようになった。

そのお陰で、

「こんな大規模な事件なのにも関わらず、なんで日本のテレビでは報道されてないのだろうか?」

というような事件や事故を多く目にするようになった。

 

そこでもう一度考えてみたい。

「真実とはなんなのか?」と。

 

真実の脆さ

真実とは「嘘偽りのない事」と定義される事が多いが、

そもそも人目に触れない真実は真実ですらないと僕は思う。

 

例えば、

海外のどこかの国で、大量虐殺が行われていたとする。

その事が紛れもない真実だったとしても、

その事件を知らないまま、日本に住んでいる僕らにとっては、

そんな事件は起こらなかったのとなんら変わらない。

 

例えば、

僕がウンコを漏らしたとする。

その事が紛れもない真実だとしても、

僕がその事を誰にも口外しなければ、世の中ではうんこは漏れていないのとなんら変わらない。

 

実際に起きている事なのに、人目に触れさせない事で、起こらなかったとする事ができる。

それが真実の抱える脆さだ。

 

みんなは情報をどこから仕入れている?

テレビ?Twitter?新聞?雑誌?人それぞれあると思うけど、

要はそこから仕入れる事の出来る事柄しか、僕らにとっては真実ではない。という事だ。

実際に起こっている真実なのにも関わらず、

知らないというだけで、真実とすら認識されない。

 

なんか怖くない??

世界中の全ての事件事故を知りたいとは思わない。

だけど、この真実の抱える脆さによって、

見せたい事件と見せたくない事件が世の中には存在しているとしたらどうする??

 

僕はオカルトには興味がないし、そんなものは信じてもいないないけど、

仮に僕がワンピースの五老生だとしたら、

自分達にとって都合の悪い事件や事故、そして真実は揉み消す。歴史上から抹殺する。

 

漫画の世界にとどまらず、

現代社会でもこのような情報操作は可能という事を頭の片隅に置いておきたい。

 

真実と情報操作

その上で情報収集には様々な媒体を使っていきたい。

情報の仕入れ先が1つしかないって事は、情報操作を受けやすいという事だ。

 

例えば、

水しか販売していない自動販売機があったとする。

その自動販売機しか飲み物の購入手段がない人間にとっては、

オレンジジュースやコーラ、他にも沢山の飲み物が存在しているのにも関わらず、

「飲み物=水」になる。

仕入れ先が1つしかないといのは、ラインナップを管理している者による情報操作を受けやすい。

 

今は飲み物で例えたが、これをテレビとニュースで表すと、

テレビという媒体しか情報の仕入れ先がない人間は、

テレビで流すニュースを管理している者によって、情報操作を受けやすいという事だ。

(裏を返せば、嘘も真実となりうるという事)

 

様々な媒体で、様々な切り口からの情報を仕入れている者は、そのような情報操作を受けにくい。

 

真実とは

僕は公正な目で世の中を見たい。

そして自分の意見を形成したい。

その意見のもと自分の生きる道を選びたい。

 

「真実とは見ようしなければ見えない事実」だと僕は思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

情報社会の生き方

はじめに

僕は検察庁法改正法案について、一方的で表面的な一次情報しか仕入れないままに、批判的な発言をしてしまった。

僕はその失敗を糧にし、それ以降は様々な情報を仕入れるようになった。

 

でもその情報収集の過程で「そもそも情報ってなんだろう?」という疑問を持った。

 

ネットで調べてみると、

 

「情報とは国家、団体、または個人が、敵対する対立すつ競合関係にある国家、団体、個人についての状況を知るために獲得する知識をいう。」

 

「情報とは簡単に言えば伝えられる内容のことである。」

 

などと記載されていた。

ほんの一部の抜粋だが、情報という言葉には様々な定義が存在している事がわかった。

 

今回はそんな「情報」に溢れた現代社会の生き方について考えてみようと思う。

 

情報は必ずしも真実とは限らない。

僕は最近の検察庁法改正法案の一件や、コロナウイルスをめぐる日本政府の対応に関して、

後日Twitter・ネット・テレビなどで様々な情報を仕入れてみたが、真実がどれなのかは見分けがつかなかった。

 

安倍総理は非常によく頑張っている」という意見もあれば、

「日本政府の対応はクソだ」というような意見もある。(後者が圧倒的に多いが)

 

特に政治に関しての情報は、発信者側の「意見」が受け取る側にとっては「情報」

というものにすり替わってしまう。

 

 例えば、

「Aさんは怒っている」という言葉は真実だし、

「Aさんは怒っていそう」という言葉は意見にすぎない。

だけど受け取る側にとっては、どっちの言葉も情報として受け取る事ができる。

 

もし受け取る側の人間が「情報=真実」だと思っていたら、

「怒っていそう」が「怒っている」という真実にすり変わり、

それをまた他者に発信する事で「Aさんは怒っている人」という印象がつき、

本当は怒っていないにも関わらず、Aさんの周りには人が近づきにくくなるかもしれない。

 

このように「情報=真実」と思っている人が、発信者側の意見を情報として仕入れ、意見を真実だと思い込んでしまった時が一番危険だ。

 

ピンク色の相関図を見て、検察庁法改正法案を批判した数週間前の僕がまさにそうだ。

 

僕は図を見て、検察庁法改正法案は悪いものだという印象を持った。

というか「持たされた」って言い方が正しいのかもしれない。

 

世の中ではどんな善人でも、誰かの人生では悪役になってしまう。

 

人物でも意見でも法案でも、その影には必ず反対派が存在する。

反対派の中には意図的にこのような印象操作を行う人がいるかもしれない。

 

そうなった時に僕たちは、真実を見極める事ができるのか?

何が正しくて、何が間違っているのか?を正当な目で判断する事ができるのか?

真偽は問わずとも、公正な判断のもと、「私はこう思う!!」と言う事ができるのか?

 

正直僕にはその自信はない。

だけど、情報は必ずしも真実とは限らない。

この事を頭の片隅に置きながら、情報収集をしていく事が、

この情報に溢れた現代社会を生きていく上で大事な事なんじゃないでしょうか??

 

おわりに

幸いにも僕には「これは違う」と意見をしてくれる友達がいる。

僕は「人の話を聞くけど効かない。」と何度も言っているが、

否定された時に、どっちの言い分が正しいのかくらいは理解できる。

 

今回の検察庁法改正法案の一件では、僕の批判的な発言に関して、真っ向から批判してきた友達の意見が僕の発言よりも正しい事くらい、話を聞けば一発でわかった。

 

だから僕が口酸っぱく言っている、「人の話は聞いても効くな」という言葉は、

「人の話は聞いても効くな。ただし自分の非は素直に求めろ」という言葉に改善しようと思います(笑)

 

頑固でいながらも素直でいればいいし、

素直でいながらも頑固でいればいい。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

判断には意味がない。

人生にはいくつもの決断があり判断がある。

 

「就職するのか、しないのか」

「仕事を続けるのか、辞めるのか」

「ハンバーグにするのか、カツ丼にするのか」

 

ついついどの判断が正しいのか?という風に考えてしまいがちだが、

大事なのはそこではない。

 

下した判断をどうやって正解にしていくかが大事なんだ。

 

例えば「ライオンを仕留める」という目的を立てたとする。

武器は剣がいいのか、槍がいいのか、それとも弓がいいのか、銃がいいのか。

結果的にライオンを仕留められるのであれば、そんなのはどうでもいい。

それらの決断は大して重要ではない。

問題は選んだ武器でどうやってライオンを仕留めるかだ。

 

 

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自分の選んだ武器は正しかったのか?

そう考えている暇があるのなら、少しでも選んだ武器を手に鍛錬に励んだ方がいい。

 

幸せな人生を歩みたい。

幸せな家庭を築きたい。

贅沢な暮らしがしたい。

目的や願望は人それぞれだが、みんなそれらを叶える為の判断に比重を置き過ぎだ。

 

違う。選んだ道で、判断で、どうやって正解を叩き出すか?目的を達成するか?

が判断よりも大事なんだ。

 

だから正直、判断なんてのはどうでもいい。

何を選ぼうと大して大差はない。

決断さえすればいい。

迷ってる暇があったら、とりあえず決断すればいい。

決断が早いと時間がたっぷり残されているから、

それを正解にするための時間を多く過ごせる。

 

自分がいいと思って選んだ武器で鍛錬に励んでいると、

 

「剣はやめた方がいい。銃の方が安全で確実だ」

「銃で仕留めるなんて男らしくない。男なら剣で仕留めるべきだ」

「槍は近代的ではない」

「弓は殺傷能力に問題がある」

 

と言われる事がある。

聞き入れてもいい。無視してもいい。

だけど、そんなのはどの武器を、道を選んだとしても言われる事なんだ。

 

 

だからいちいち耳を貸していると、

鍛錬の時間が削がれて、目的の達成から遠ざかることになる。

 

自分の選んだ道を、武器を、正解にしていく事。

それが判断や決断よりも大事な事だと俺は思うよ。

 

俺は自分の選んだ道を正解にするために、毎日コツコツと積み重ねている。

みんなも、自分の目標に向かってコツコツ積み重ねていこうぜ!!

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!!