我慢は強要の始まり
自分のものさしで生きる
嘘つきは泥棒の始まりという言葉がありますが、我慢は強要の始まりだと思います。
俺は現在ニートだ。
大学まで出してもらって、実家に住んでいるニートだ。
世間一般的なものさしで評価し、表現するなら「クズ」だ。
だけど俺は自分の事を「どうしようもないクズ」だとは思っていない。
他人のものさしで算出された評価など、どうでもいい。
人生の良し悪しを決めるのは俺自身だ。
死ぬ時に他人が、「あなたの人生は〇〇です」と評価を下すわけでもない。
他人から見たらゴミみたいな人生でも、死ぬ時に「自分がいい人生だった」と思えれば、誰がどう言おうと、それはいい人生なのだ。
人の人生なんてどうでもいい
そんな俺に向かって、「働け」という人がいる。
「大学まで出してもらったんだから、自立した方がいい」という人がいる。
なぜ、俺の人生にそれほどまでに関与したがるのか?
人の人生なんてどうでもいいと思っている俺からすると、全く理解できない感覚だ。
「人の人生なんてどうでもいい」
そう言うと、冷たい人間だと思われる事がある。だから誤解を生まない言い方をするならば、
「俺は俺が好きなように生きてくから、そっちも好きにすれば??」である。
自分が好きなように生きている人間は、他人の人生や決定に伴う判断に興味を示さない事が多い。そして何よりも、自分の価値観を他人に強要しない。
俺がニートだろうと、親のスネをかじっていようと、
それに対して、「働け」だの「自立しろ」などという言葉は、
自分のものさしで、自分の人生を好きに生きている人間からは、普通は出てこない言葉なのだ。
我慢は強要の始まり
「働かない事はダメな事だ」
「親のスネをかじる事はダメな事だ」
「大学まで出たからには、就職しなきゃダメだ」
そんな一般的に普通とされている常識を盲目的に信じている人間にとって、
「働かない」
「親のスネをかじる」
「大学まで出といて、就活すらしない」
そんな俺の存在はイレギュラーであり、自分を否定されている感じがして存在そのものが不快なんだと思う。
※そもそも、インフラが整った環境に身を置く事は、当たり前の判断だと思う。
実家ほどに、低価格でインフラの整った環境はない。
親のスネなんてかじりまくって、その間にプロテインを開発し、後から超回復させればいい。
自分が信じてきた価値観を守る為に、自分とは異なる生き方をしている人に向かって、「働け」「自立しろ」と言い、自分と同じ人生を歩ませる事で、自分の価値観と判断は正しかったのだと認識しようとしているのだ。
本当はその人にも、好きな事ややりたい事の1つや2つあると思う。
でも自分の気持ちに蓋をして押さえ付けているから、そうしていない人間が気に食わないのだ。「俺も我慢しているんだから、お前も我慢しろ」と思うのだ。
だから、我慢は強要の始まりだと思う。
人に何かを強要したくなった時は、必ず自分の心の中に「我慢」がある。
感情のままに、自分の価値観を押し付けても、自分の気持ちは短期的にしか満たされない。
そんな無意味な事をするよりも、自分の心の中の「我慢している感情」を解き放ち、
自分の好きなように、自分のものさしで生きた方が、人に対しても寛容になれるし、
人に優しくできると思う。
逆に他人に価値観を強要されそうになったら、
「あ〜こいつ無理してんだな」
「我慢してんだな」
程度に留めて、はいはい聞き流せばいいと思う。俺はそうしている(笑)
おわりに
自分のやりたい事がある人って意外と少なくて、
それを実際にやっている人はもっと少なくて、
だから、周りとは異なった生き方に見られてしまう事が多く、
周りからは様々な言葉で、人生矯正プログラムを押し付けられるけど、
「価値観を強要してくる奴=我慢している奴=かわいそうな奴」っていう理論を形成してからは、そんな言葉は意に返さなくなった。
もし、イレギュラーで少数派の生き方を選んでしまい、
来る日も来る日も、他人からの価値観の押し付けに困っている人がいたら、
そんなの気にしないで、自分らしくいる事を大事にして欲しい。
俺もそうやって生きていくから!!
そして数年後、「な?俺らの選んだ道もまあまあ良かっただろ?」って言ってやろうぜ!!
最後まで読んでいただきありがとうございました。