自由の弊害

コロナウイルスの影響で、活動自粛が求められている現在。

在宅生活に嫌気がさしている人も多いと思う。

そんな時に、自分が我慢しているのにも関わらず、外で遊び呆けている人も見ると、

「私も我慢してるんだから、お前も我慢しろ!」といったように、

自主規制をかけない人々に文句を言いたくなる。

自分達と同じように我慢する事を求めてしまう。

 

そう思うのはごく当たり前の心理だ。

コロナウイルスに限っては、それが正論だ。

 

しかし、これを生き方や人生といった部分でも適用してくる人達がいる。

 

生き方は自由だ。

人生も自由だ。

それなのに、勝手に自分で自分の人生に自主規制をかけておきながら、

自由に生きている人を見て、文句を垂れる。

 

「働け」だの「就職しろ」だの、

「好きな事だけしていてはダメだ」だの、

自分達と同じ環境に引っ張り込もうとする。

 

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世の中には無意識の内に人の翼を切ろうとする人がいる。



 

俺にそういってくる人間は、ほぼいないけど、

大勢の人とは違う道に向かって、一歩踏み出した時には、

そう言う人が必ず現れる。

 

それは仲の良かった友達かもしれないし、

はたまた大好きな恋人かもしれない。

 

そういう時は、あっさりと関係を絶ってしまうか、

自ら馬鹿を演じて、彼らを肯定し、無理に言い争わない方がいい。

 

そう言ってくる連中は自分の人生は正しいものだと思い込みたいから、

違うレールを走っている人間を否定したがるが、

俺は自分の人生が楽しいから、人の事なんてどうでもいい。

だからわざわざ言い争わない。

 

相手の人生や生き方を否定したがる人間っていうのは、自分の人生に満足できてない人間だ。

だから他者を否定する事で、自分の生き方の正当性を確認し、認識しようとする。

 

そんな人間と言い争っても時間の無駄だ。

「そうだよね〜」と相手の言い分を通し、気持ちよくさせれば良い。

そうすると勝手に黙る。

 

20歳を超えたら、

今までの自分が好きなのか?それとも、

これからの自分も好きなのか?

で付き合う人間を選別した方がいいと思う。

 

人生は死なない限り続く。

未来の自分を好いてくれない人間に構っている時間はない。

 

逆もまた然り。

 

コロナウイルス以外の場面で、他人を自分と同じ境遇に導きたくなったら、

「あ、俺今自主規制かけているんだ」

「俺の我慢している事はなんだろう?」

そう考えると、自分のストレスの原因がわかってくるし、

人を否定しないで済むから、人間関係を難しくしないで済む。

 

まー何が言いたいかと言うと、

自分で自分の人生に自主規制をかけている人は、

他人の生き方を否定してくるから、無視した方がいいよって事。

 

どうせ死ぬんだし、生きたいように生きればいいんだよ。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やりたい事が見つからないわけがない。

やりたい事が見つからない。

「やりたい事が分からない」

「やりたい事が見つからない」

そういう人間に限って、スケジュールはパンパンで忙しい。

 

だから、やりたい事が見つからないんだよ。

 

俺は学校は週1。バイトは一切なし。

って生活を2019年の10月〜3月の卒業まで続けた。

卒業後も実家に帰って、バイトは一切せず、写真を撮っている。

 

 

夜は撮影ができないから、翌日撮るコーディネートを考えている。

その他にもコンテンツの見出しやを考えたり、着こなしのコツなどみんなが「お洒落」って言葉で片付けてしまっている事を、言語化するために雑誌を読んで言葉を仕入れている。

そうこうしていると、あっという間に3時4時になり寝る。

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言葉を仕入れて、自分の言葉に変換する。

 

朝は10時から撮影を始めるから、9時に起きて、準備をする。

撮影後は陽が落ち始めて、日光が弱まるまでノンストップで撮る。

 

俺はそのくらい今やってる事が好きで、熱中している。

 

だけど、自分でもこんなに熱中するとは思っていなかった。

 

やりたい事を見つけるには暇が必要

夏の帰省を終え広島に帰り、本格的にバイト無しの生活が始まった時、

最初の数週間は俺もやりたい事が見つからないかった。

 

だけど、携帯ピコピコも1週間もすれば飽きる。

 

何をしてもいい。

寝てもいい。

1日中ゲームをしてもいい。

そんな日が何日も続くと、人はやりたい事を探し始める。

 

「明日はあれをやってみよっかな」

そんな感情が芽生える。

 

最初は小さくたっていい。

 

「明日はあの映画を観にいこうかな」

「明日はジムへ行って運動しよっかな」

「スタバで考え事しよっかな」

 

そんな自分の「やってみよっかな」って感情を1つ1つ満たしてあげていく過程で、

一度満たしてあげたのに、もう一度「やってみよっかな」って思ってしまう事がある。

 

それがきっと、自分のやりたい事だ。

 

要するに、やりたい事を見つけるには「圧倒的な暇」が必要なんだ。

 

バイト、学校、飲み会、そうやってスケジュールを満たしても、

自分の心は満たされない。

 

そんなものに時間を奪われて、自分の時間が少ない奴に、

やりたい事なんて見つかるわけがない。

 

やりたい事が見つからない人は、まずは1人の時間を確保して、

自分の自由な時間を確保することから始めた方がいいと思う。

 

やりたい事は好きな事じゃない

やりたい事を見つけたら、今度はそれが好きな事か確かめる必要がある。

やりたい事=好きな事って最初は思っていたけど、意外にもそうではない。

 

自分が好きだと思っていた事は、ただ単に憧れていただけで、実際に行動に移してみると、「あれ?思ってのと違う」ってパターンが多い。

 

俺はお金が好きだったし、お金の運用をしてみたいと思って、

株や仮想通貨をやってみたけど、実際やってみると全然面白くなかった。

しまいには大損までした(爆笑)

 

ブログもYouTubeも、面白くなかったわけではないけど、

別にそこまでハマる事はできなかった。

 

だけど写真は別だった。

インスタグラムは別だった。

 

「もう辞めろ」と自分に言い聞かせても、ついついカメラを手に取る自分がいた。

 

恥ずかしがり屋の俺は、外での撮影が嫌だったので、室内で撮る方法を好んだ。

だから、部屋の中のスペースを確保する為に、ソファーベッドを後輩に譲り、

冷蔵庫とテレビ以外を残して、家具を全部撤去した。

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写真撮って寝る為だけの部屋になった。

 

照明も日光に近い光に切り替えて、寝る時は床に布団を敷いて寝た。

室内撮りは太陽に影響を受けないので、ほぼ毎日徹夜状態で、

「眠たくて死ぬ!」ってなるまで撮り続けた。

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このスペースでホームレスのように寝た。冬は寒かった。

 

 

バイトが悪いとも思わないし、

友達と遊ぶことも大いに結構だ。

 

だけど、やりたい事を本気で見つけたいなら、

自分の時間の確保を最優先しよう。

 

俺はそうやって自分の本当にやりたい事に出会った。

 

おわりに

ニートが何を偉そうに」

「働きもしないで偉そうに」

 そんなこと言われてもどうでもいい。

 

職に手をつける事以上に、

本当にやりたい事があるというには人生を豊かにすると俺は思う。

 

コロナで大変なご時世だけど、

俺の人生毎日楽しいいぜええええええ。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どう生きるのか?

 

どう生きるのか??

失敗もリスクもない平凡な道を進まない。

リスクは伴うが、自分の理想を追い求め手に入れる生き方をする。

俺は就職をしないという決断と共に、そういう生き方をすると自分で決めた。

 

生き方を決めるとブレない。

誰だって理想の未来がある。

だけどそれを叶えるまでの過程で、理想と現実のギャップに落ち込む。

 

俺だって寝る前には、

「今日の俺の1日に価値はあったのかな?」

「就職しないという俺の選択は正しかったのかな?」

というような不安や恐怖心に押し潰されそうになる。

 

だけど生き方を決めていると、

「これが俺が選んだ生き方なんだ」と不安や恐怖心も受け入れる事ができる。

 

結果、自分の軸がブレないから、目標に向かって歩みを進める事ができる。

 

俺の3年後

 

俺は今、「大学生が買うべきもの」などのネタを考えて、それに相応する写真を撮って、加工し文章を付け加えながら、コンテンツを作っている。

 

そうやってコンテンツをクリエイトし、インスタグラムで発信している。

 

俺のよりかっこいい人なんて世の中には沢山いる。

俺より写真を撮るのがうまい人も沢山いる。

 

だけど俺の感性、お洒落に対する拘り。

それを体現できるのは俺しかいない。

 

2年後にはモデルもカメラマンも自分より上手い人に託して、

チームとしてコンテンツを作っていく。

 

だけど現時点で何者でもない俺は全てを自分でやるしかない。

 

しかしそれにも全て意味がある。

全ての創作過程を経験しておく事で、

後々チームで活動する時に各工程を手掛ける人の苦労を理解する事ができる。

 

3年後にはお洒落を言語化した情報発信のメディアを形成して、

ファッションやメイク、考え方に至るまで、世の中に男性のバイブルとなるような情報発信をプロデュースする。

 

 

これらを達成する過程で、

ニートだったとしても、

社会的に見てクズだったとしても、

不安や恐怖に押しつぶされそうになったとしても、

 

生き方さえ決まっていれば、耐える事ができる。

 

だから俺は就活をして自分の職を決める事よりも、

「どう生きるのか?」という生き方を決める方がよっぽど大事だと思う。

 

おわりに

どんどん夢が膨らんでいって、当初の目標よりスケールが大きくなってしまったけど、

俺はそれに挑み続けようと思います。

 

生き方を決めると、周りの雑音が気にならなくなるので、

何か叶えたい目標がある人はまず、生き方を決めるといいと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

良かったら是非↓

インスタ(https://www.instagram.com/coco_style_dayo)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リピンスキー理論

はじめに

最近、自分の人生に対して恐怖や不安を感じる場面が増えた。

4月に入り、周りの友達が新社会人として新たなスタートを切っている。

 

そんな中、「俺は何をしているんだろう?」「このままで大丈夫なのだろう?」そういった感情が付き纏い始めた。

 

お金も尽きるから、そろそろお金を稼ぎたい。

でも今の俺には自分の時間を差し出す他に、お金を稼ぐ手段がない。

自分の時間を対価にお金を得るのではなくて、自分の生み出す価値をお金に変換したい。

そう思って、今まで色々なことに挑戦してきたけど、現状今の実力では自分が最も選択したくないお金の稼ぎ方に頼らざる得ないのだ。

 

就職せずに結局バイトを始める。

そんな自分の現状に対して、悔しさと共に自分に対する疑いの感情が芽生えた。

 

でも俺は思う。

 

80点以上を目指すのなら、平均点を下回るリスクが伴うのではないかと。

 

リピンスキー理論

スケート界で「ミス・パーフェクト」と呼ばれる選手がいた。

世界選手権を5度制覇しているミシェル・クワンだ。

しかし、彼女は一度もオリンピックで金メダルを取れていない。

 

長野オリンピックでは、首位で迎えたフリーの演技で高得点を叩き出し、1位をキープしていたにも関わらず、2位のリピンスキーが彼女が飛ばなかった難易度の高いジャンプを成功させて、それを上回る点数を叩き出した為、結果は銀メダル。

金メダルを逃した長野オリンピックを含め、オリンピックの舞台では彼女に勝利の女神が微笑むことはなかった。

 

逆転で金メダルを獲得したリピンスキーがもし、難易度の高いジャンプに挑んだ結果失敗していたら、優勝はおろか表彰台にも上がれてなかったかもしれない。

 

そのリスクを承知で彼女は挑んだのだ。

その時の不安や恐怖は計り知れない。

しかし彼女は挑んだ。そして成功させた。

 

この出来事を本で知った時に、上記の仮説は俺の中で理論に変わった。

 

俺はその理論に、選手の名前をとってリピンスキー理論と名付ける事にした。

 

恐怖心と不安は隠れGOサイン

 

皆んなと同じ道を歩む事で平均点以上の人生を送れるかもしれない。

それが悪いことだとも思わない。

 

だけど俺の選んだ道はそこじゃない。

俺が選んだのは、難易度の高いジャンプ。

 

それで俺は今、平均点を下回るかもしれないというリスクに怯えている。

 

ん?ん?ん?

 

でもそれって俺がリスクを取れてるってことだよね?

 

そう考えると、なんだかこの恐怖心そのものが、このまま進めという啓司のように思えてきた。

 

恐怖心や不安は隠れたGOサインなんよきっと。

 

おわりに

発想の転換という点において、俺はやっぱり天才だった。

恐怖心や不安を味方にできるとか、無敵でしかない。

 

よーし。まずはバイト探すぞおおおお!!

それでいて、インスタグラムの発信も継続していいく!!

 

ポジティブなニートって自称してても、恐いもんは恐いし、不安なもんは不安だ。

 

だけどそういう時は、冷静に自分の気持ちを整理して、その恐怖心や不安の原因を見つけ出し、発想の転換でポジティブな要素に変えていく事が大事だと思うよ!

 

タラ・リビンスキー。

当時15歳で金メダル。実際にYouTube長野オリンピックでの演技を見てみたけど、凄かった(語彙力)。興味ある方は是非見てみて下さい。

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最後まで読んでくれてありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マジキナマジック

名将「マジキナ」

那覇西高校は県内でも屈指のサッカー強豪校です。

各チームのエース級が集まる高校なのでメンバー争いも激しい。

 

入学当初からレギュラーとして活躍する選手もいれば、

1、2年時は下のカテゴリーでプレーしていながらも、

3年生になるとトップチームで活躍する選手もいる。

 

僕が在籍した2013年〜2016年当時、

カテゴリーの最下層を指揮していたのが、知る人ぞ知る名将「マジキナ」である。

マジキナの指導の下、メキメキと頭角を現しトップチームに定着する選手は数多くいた。

 

最下層のカテゴリーから、トップチームで戦える選手を数多く排出してきた名将マジキナ。

そんな彼の手腕を讃え、人はこの一連のシンデレラストーリーを「マジキナマジック」と呼んだ。

 

独特の言葉使い

マジキナは高校で物理の先生を務める超キレ者であったため、発する言葉がかなり独特であった。

 

「このカテゴリーで練習に質を求めるのは無理だから、量をこなそう。4時間コースと6時間コースどっちが良い?」

 

炎天下のグランドで、4時間or6時間の選択を迫るなんて、「死ぬ」か「死ぬ」かの二択である。当時はなぜか死ななかった(笑)

 

「自分にベクトルを向けろ」

 

試合中のミスや失点は人のせいにすることなく、自分に原因があったと思え。

的なニュアンスで使われていた、彼の必殺ワードである。

 

「自分にベクトルを向けろ」は脳科学的に正しい

最近、脳科学に関する本を読んでいて、「自分にベクトルを向けろ」という言葉の下、ミスの原因を自分の中から究明させる指導法は、脳科学的に見ても非常に理にかなっているという事がわかった。

 

人間の脳は体験によって進化する。

失敗するとその時使われていた脳の関連回路に、電気信号が流れにくくなり、失敗する前よりも失敗しにくい脳に変化を遂げる。

 

しかし「自分に非はない」と、失敗を失敗と思わなかったら、脳はその出来事を失敗と認識できずに終ってしまう。せっかく失敗して痛い思いをしているのに、それを失敗だと認識させずに、脳の進化を妨げてしまうのは非常に勿体無い事なのだ。

 

それ故、自分のミスであってもなくても、自分にベクトルを向け、脳を更新していく事は自分の成長を促す。

 

名将マジキナ恐るべし。

 

おわりに

失敗をプレー中に反省したり、仕事のミスを仕事中に反省したりするのは、パフォーマンスの低下を招く恐れがあるが、1日の終わりにでも自分にベクトルを向けて、自分の中から原因を究明していく事は、自分の成長を促す為にも非常に大事な事だと思いました。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました!!

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我慢は強要の始まり

自分のものさしで生きる

嘘つきは泥棒の始まりという言葉がありますが、我慢は強要の始まりだと思います。

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俺は現在ニートだ。

大学まで出してもらって、実家に住んでいるニートだ。

世間一般的なものさしで評価し、表現するなら「クズ」だ。

 

だけど俺は自分の事を「どうしようもないクズ」だとは思っていない。

他人のものさしで算出された評価など、どうでもいい。

人生の良し悪しを決めるのは俺自身だ。

死ぬ時に他人が、「あなたの人生は〇〇です」と評価を下すわけでもない。

他人から見たらゴミみたいな人生でも、死ぬ時に「自分がいい人生だった」と思えれば、誰がどう言おうと、それはいい人生なのだ。

 

人の人生なんてどうでもいい

 

そんな俺に向かって、「働け」という人がいる。

「大学まで出してもらったんだから、自立した方がいい」という人がいる。

 

なぜ、俺の人生にそれほどまでに関与したがるのか?

人の人生なんてどうでもいいと思っている俺からすると、全く理解できない感覚だ。

 

「人の人生なんてどうでもいい」

そう言うと、冷たい人間だと思われる事がある。だから誤解を生まない言い方をするならば、

「俺は俺が好きなように生きてくから、そっちも好きにすれば??」である。

 

自分が好きなように生きている人間は、他人の人生や決定に伴う判断に興味を示さない事が多い。そして何よりも、自分の価値観を他人に強要しない。

 

俺がニートだろうと、親のスネをかじっていようと、

それに対して、「働け」だの「自立しろ」などという言葉は、

自分のものさしで、自分の人生を好きに生きている人間からは、普通は出てこない言葉なのだ。

 

我慢は強要の始まり

 

「働かない事はダメな事だ」

「親のスネをかじる事はダメな事だ」

「大学まで出たからには、就職しなきゃダメだ」

そんな一般的に普通とされている常識を盲目的に信じている人間にとって、

 

「働かない」

「親のスネをかじる」

「大学まで出といて、就活すらしない」

そんな俺の存在はイレギュラーであり、自分を否定されている感じがして存在そのものが不快なんだと思う。

 

※そもそも、インフラが整った環境に身を置く事は、当たり前の判断だと思う。

実家ほどに、低価格でインフラの整った環境はない。

親のスネなんてかじりまくって、その間にプロテインを開発し、後から超回復させればいい。

 

 

自分が信じてきた価値観を守る為に、自分とは異なる生き方をしている人に向かって、「働け」「自立しろ」と言い、自分と同じ人生を歩ませる事で、自分の価値観と判断は正しかったのだと認識しようとしているのだ。

 

本当はその人にも、好きな事ややりたい事の1つや2つあると思う。

でも自分の気持ちに蓋をして押さえ付けているから、そうしていない人間が気に食わないのだ。「俺も我慢しているんだから、お前も我慢しろ」と思うのだ。

 

だから、我慢は強要の始まりだと思う

 

人に何かを強要したくなった時は、必ず自分の心の中に「我慢」がある。

感情のままに、自分の価値観を押し付けても、自分の気持ちは短期的にしか満たされない。

そんな無意味な事をするよりも、自分の心の中の「我慢している感情」を解き放ち、

自分の好きなように、自分のものさしで生きた方が、人に対しても寛容になれるし、

人に優しくできると思う。

 

逆に他人に価値観を強要されそうになったら、

「あ〜こいつ無理してんだな」

「我慢してんだな」

程度に留めて、はいはい聞き流せばいいと思う。俺はそうしている(笑)

 

 

 

おわりに

自分のやりたい事がある人って意外と少なくて、

それを実際にやっている人はもっと少なくて、

だから、周りとは異なった生き方に見られてしまう事が多く、

周りからは様々な言葉で、人生矯正プログラムを押し付けられるけど、

「価値観を強要してくる奴=我慢している奴=かわいそうな奴」っていう理論を形成してからは、そんな言葉は意に返さなくなった。

 

もし、イレギュラーで少数派の生き方を選んでしまい、

来る日も来る日も、他人からの価値観の押し付けに困っている人がいたら、

そんなの気にしないで、自分らしくいる事を大事にして欲しい。

 

俺もそうやって生きていくから!!

そして数年後、「な?俺らの選んだ道もまあまあ良かっただろ?」って言ってやろうぜ!!

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蚤のサーカス

蚤のサーカス

蚤(ノミ)は後ろ足が発達していて、自分の体長の約60倍〜100倍の距離を飛躍する事ができます。

 

17世紀頃のフランスでは、その脚力を利用して、蚤におもちゃを引かせたり、ボールを蹴らせたりなどの曲芸が、サーカスの場で脚光を浴びていました。

 

跳べなくなった蚤

 

しかし、これほどの脚力を持つ蚤の管理はとても大変でした。

 

そこでサーカス団員は蚤を瓶の中に数日間閉じ込めました。

 

すると数日後どうなったと思いますか?

 

自分の体長の60倍〜100倍の跳躍が可能だった蚤が、瓶の蓋の高さまでしか飛べなくなってしまったのです。

 

その理由は瓶の蓋にぶつかり、地上に落とされる度に、「自分はここまでしか跳べない」と、自分で認識してしまったからです。

 

 

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俺はこれと同じ事が、人間社会でも起っていると思います。

「お前にはできない」「お前には無理だ」などの言葉で自分の可能性を否定された人間は、

よっぽどの人間でない限りは、その言葉を受け入れ、「自分にはできない」と認識し、あろうことか本当にできなくなってしまう。

 

幸いにも俺には「ほくとなら出来る」「期待してる」そう言ってくれる両親や友達が周りに沢山いた。

 

俺が生まれながらに神様から与えられた才能は、家庭環境と友人関係だと思う。

俺自身に付与された才能では無いけど、どでかいものをプレゼントしてくれたと思っている。

神様サンキュうううううううううう!!

 

蚤の復活

跳べなくなった蚤の跳躍力を元に戻す方法は存在する。

 

蚤の跳躍力を元に戻す方法は、

  1. 通常通りの跳躍を見せる蚤の跳躍を見せつける。
  2. 蚤の足元を火で炙り、跳ばざる得ない状況を作り出す。

の2つです。

 

要は

  1. 成功例を見せつけ出来ると認識させる。
  2. 生きるか死ぬかの火事場を作り出す。

です。

 

これは人間にも当てはまると思います。

 

人間はリアルな死の局面に遭遇することで、自分の力以上のものを発揮すると言われています。

 

あのスティーブ・ジョブズ膵臓癌で3か月〜6か月の余命宣告された後に、奇跡的な回復を果たし、51歳でiPhoneを発表している。

 

「お前の根拠のない自信はどこから来ているのか?」

「その行動力は何が原動力となっているのか?」

「失敗は怖くないのか?」

 

俺はそう聞かれる事が多いけど、本を読み自分よりも凄い人達の存在を知ったお陰で、成功者と言われている人達も最初は何者でもなく、0から成功を果たした人だという事がわかった。

 

その結果、「同じ人間なんだし俺にも出来る」と認識するようになっていった。

 

まさしく蚤と同じように、成功例を見せつけられ、「自分にも出来る」と認識させられたのだ。

 

蚤と人間の違い

人間は賢くなり過ぎたせいで、「自分と彼らは同じ人間ではない」と認識してしまうが、

蚤と同じように素直な気持ちで「俺にだって出来る」と思う事が大事だと思う。

 

大半の人は成功者と自分を比較して、彼らと自分は違う人間だと思いがちだけど、そんな事はない。

 

自分の現状と、成功者の現状を比べて、悲壮感を感じるのは、無知の現れだ。

 

彼らの過去を知らず、苦労した時期や挫折した時期を知らないだけ。

彼らの努力や困難に立ち向かう姿勢を、「天才」や「才能」と言う言葉で片付けてしまうのは、非常に失礼な事だと思う。

 

蚤は体長の60倍〜100倍の跳躍を見せるが、人間はそれ以上に跳躍できる。

 

自分の身長の何千何万倍もの高さまで、飛行機を使って飛ぶことができる。

 

飛行機など存在しなかった時代に、空を飛べると信じた人がいたお陰で、飛行機という乗り物が生まれ、空を飛べるようになった。

 

「空など飛べない」そう思ったら本当に飛べないのだ。

 

だから、意地でも強がりでもなんでもいいから、「俺はできる」そう思う事が大事なんじゃないのかな?

 

跳び方を見せる蚤に俺はなる

そうは言っても、いきなり「俺にもできる」と思えるようなもんでもないと思うから、

俺がまずは跳んで、みんなに跳び方を見せる蚤になろうと思います。

 

だってこんな俺でも跳べたら、みんな「俺も跳べるかも!?」って思うだろ??

 

上江洲星空斗(22)職業ニート

俺に関わる皆んなが自分の望むところまで跳べるように、これからも頑張りたいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!!